暑い夏の日。
子供を抱えて、嫁さんと、
近所の焼きそば屋に昼飯を買いにいく。
降りそそぐ蝉時雨。
アスファルトに揺らぐ陽炎。
ふと……
俺の親父とお袋にも
こんな暑い夏の日があったんだろうなあ、
俺を抱えて焼きそばを買いにいった日もあったんだろうなあ、と
ぼんやり思う。
「ジェネレーション」という言葉には、
語源をたどっていくと「30年」とかそういう意味があると、
渡部昇一さんか誰かが本に書いていた。
一般的に「三十三回忌」で弔い上げなのは、そのぐらい経てば生前のその人を知っている人たちも死に絶えるからで、すなわち「その人を知る人たち」がいなくなるというのは、「その人の個性」を知る人がいなくなるということなので、無個性な「ご先祖様」でひとまとめにしてしまえるのだと、仏教学者の末木文美士さんが本に書いていた。
親父は若いころ不摂生だったので、もうこの世のどこにもいないし、
俺も似たようなものなので、ギリギリ三十年後にいるかいないかだろう。
この子は、俺の親父を知らないまま育つし、
俺の曾孫あたりは、たぶん俺と顔を合わせることもないだろう。
(現に、俺がひいじいさんを知らない)。
そんなことを繰り返しながら、
代によってはふるったり、ときに落ちぶれたりしながら、
人間は血を伝えてきたわけだ。
こいつが、今や写真でしか見られない俺の親父や爺様の血や、
いま抱きかかえている俺の血を伝えてくれることは、
「希望」という言葉に置き換えて、とても嬉しい。
足利家時の置文みたいなものだ(そうか?)
三十年後。
この子に、今日のような「暑い夏の日」が訪れますように。
Author ウェブデザイナー久川智夫
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