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が、「シャア=共工」説を私に強くイメージ付けたのは、あまり知名度は高くないが、アフランシ・シャアなのである。
彼は『ガイア・ギア』という小説に登場する主人公で、シャアの「メモリー・クローン」とされる青年だ。
『ガイア・ギア』とは、ガンダム“ファン”とガンダム“オタク”とを分ける試金石のような作品で、初代ガンダムの監督・富野由悠季が執筆しながら、非公式作品とされる非嫡出子である。
宇宙世紀の事実上の最後(『V』の次、『Gセイバー』の手前)をつとめる作品であり、ガンダムでありながら、南の孤島から幕を開ける異色の作品だ。
(余談だが、久川はほぼ初版しか出なかったこの本の、25年を経た古紙の匂いが特に好きである。しかしそれも、Amazon やヤフオクがあまり発達していなかった時代、この本を探して遠方のブックオフを目指し、自転車を漕いでようやく手に入れたという学生時代の思い出補正が含まれているのはいうまでもない。しかも、ラジオドラマ版のメインテーマ VOICE OF GAIA が、まるでシャア後100年の宇宙世紀を謡っているような空虚感の中に、アフランシの紡ぐ未来への展望を感じさせてくれて実に素晴らしいのだ)。
作品そのものは、シャア・アズナブルという百年前のカリスマを前面に押し出していない、どちらかといえば山も谷も少ない、よく言えば、「どんな神性を帯びた英雄でも百年経てばただの年表上の人物であり、それを信奉しているのは狂信者に過ぎない」という点が描かれている点において、妙なリアリティのある作品ではある。
が、特筆せねばならぬのは、この作品が富野由悠季の手によって『逆襲のシャア』とほぼ同時期に執筆されたという点だ。
富野由悠季は、『逆襲のシャア』においてリアルタイムの英雄としてシャアを殺し、一方『ガイア・ギア』においては、過去の英雄としてシャアを葬ったのである。
なんというバランス感覚であろう。
富野由悠季という人が、あくまで商業ベースの人であれば(もちろん、ヒットメーカーとして優れた方ではあるが)、『ガイア・ギア』のシャアは千年万年崇められる伝説に描かれ、俺たちオタクの見たい英雄に仕立てられていったはずだ。
が、富野由悠季という人は、全く同じタイミングでシャアを殺し、返す刀で、シャアをダシにした新たな主人公を作り上げているのである。その結果、作品は凡庸となったが、アフランシ・シャアは未来を感じさせるキャラクターとなった。
彼は名前の通り、シャアから「自由にされた」(アフランシ)のである。
ちなみに、「見ようによっては名作に見えないこともない」ガイア・ギアの原作小説に対し、ラジオドラマ版はツッコミどころ満載な仕上がりである。
とにかく敵味方の戦いが紳士的というか牧歌的というか、平安武士の戦いのようなのだ。
ファースト以後を知るガンダムファンにとって、連邦の反連邦弾圧はグロテスクなもの、捕まったら即ゲームオーバーというイメージがあるが(ティターンズの毒ガスやキンバレー部隊の虐殺、バズ・ガレムソンの残党狩りのように)、このラジオドラマに登場するマハたちは極めて紳士的である。
主人公を見つけても「まず本当に敵なのか確かみてみろ!」ところから入るし、主人公一味を捕らえてもケルナグールぐらいの虐待しかしないし、敵の総大将のダーゴル大佐は、「引退した伝説の老革命家」を捕らえても紳士的に応接するし、ライバルキャラクターのウル・ウリアン青年が、ダーゴル大佐への反乱と暗殺をもくろんでも、それに気付きながら「私を越えていけ」的に許してやる。あのマハの末裔とは思えないぐらいの甘い人たちなのだ。
さて、話を共工に戻そう。
漢民族による中原の覇権が確立するにつれ、共工はその名を見せなくなってゆく。
自分たちが圧倒的であれば、手向かった弱小勢力が如きは悪神に擬する必要がないからだ。
(セガールが不安だから、アンソニーというライバルを必要としたように)。
その一方、シャアはガンダムファンの裾野が広がるにつれ、さらに拡大再生産して、似たような仮面のキャラクターは数を増していく。
彼は共工という神が作られた背景よろしく、「主人公と戦って惜敗するために」、生み出されていくのである。
筆者の学生時代の友人・臼井君が、俺にこんなことを言ったことがある。
「なんでゲームのラスボスって弱い部下から順に主人公と戦わせて、結局最後は自分一人きりになって城に立てこもるんだろう。最初から自分が戦えばいいのに」。
確かに臼井君はアホかも知れぬ。が、彼の疑問は真理でもある。
ラスボスは「ラストダンジョンの最下層で主人公たちを迎え撃ち、倒される」のが仕事なのである。
同様に、シャアにはシャアの仕事がある、ということなのだ。
そして、その「シャアの仕事」からただ独り解放されたのが、アフランシ・シャアだった。
彼は正統なるシャアの系譜上にありながら(それも名前にシャアそのものを冠しながら)、赤いモビルスーツにも乗らず、仮面もせず、宇宙移民者の権利だとか政治的なことも言わず(どちらかというと環境活動家みたいなことばかり言っていた)、ただ自分らしく戦い、ラストシーンでは恋人に自分の子供を宿させて、シャアというキャラクターに引導を渡したのであった。
筆者は『ガイア・ギア』でシャアは「成仏した」と感じているからこそ、その後のシャア・シリーズに蛇足の感を抱くのであろう。
ガンダムファンたちよ、どうかそろそろシャアを自由にしてやってくれい!
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